昭和40年05月01日 月次祭
歌の文句に、「鷺(しらさぎ)に似たような、にしもちながら、からすみたいな苦労をすると」都々逸のもんくです。「白鷺みたいな、にしもちながら、からすみたいな苦労をする」と。役者にもほしいような、立派なええ男を持ちながら、なんでこんなに(録音不良)。本当に勉強をすれば出来る頭を持ちながら、勉強をしないから、いつも落第ばかりをする。(録音不良)椛目に御神縁を頂いておるのと同じ。
みんなここん所を一つ自覚しなければいけない。椛目に御神縁を頂かれたということ。これは、もう天地乃親神様がです、ね、特別な難儀な氏子として、ご縁を下さり手を差し伸べてくださった。私昨夜の御理解の中に皆さんに聞いていただいたのですけれども、とにかく、私は椛目にご縁を頂いている人たちがです、本気でお道の信心を頂いておるというだけではなくてです、椛目にご縁を頂いておるということにです、心から感謝の思いがでるような、おかげを頂かねばいけないということです。
そして、お互いがです、らすみたいな苦労の中からです、勉強すれば必ず優等生にもなれようかというような頭を持ちながらです、苦労をしておる、皆の難儀を神様はあの人この人をつこうて、椛目にお引きを寄せを下さった。そして勉強の仕方、勉強をする楽しみ、勉強によって得るところの学問でいうならば学徳。信心で言うところの御神徳と、御神徳を身に受けさせて、人間真実生きる幸せ。生きる張り合い。
この世に生を受けさせて頂いて、ね、生きる値打ちのある生き方をして頂く道を教えて頂くのである。ね、そういう道をお互いが、習わせて頂きながら、体得しないと言うことは、惜しいことと言うこと。ね。折角、椛目にご縁を頂いたのでございますから、ね、そこの勉強が出来なければ私は、人間は神様の氏子で、が故に、私共の信心いかんによっては、教祖の神様のお言葉をもってするならば、「この方だけが生神ではない。みんなもこのようなおかげが受けられる」という風に教えておられる。
「生神になれる道」ね。ただ、一平凡な凡夫であり、一お百姓でおありにあった教祖の神様がです、実意一筋の信心をもって、神様から生神としての位を頂かれ、ね、天地の親神様からも「この方金光大神があって世に出た」と言われ、「氏子からの恩人である」ともいわれ、その、生神がです、私だけの専売特許ではないのだ、みんながこのようなおかげが受けられるのだと、教えておられる。
ですから、お互い目指す所はです、ここの所におかげを頂かせて頂く。そういう意味でです、私は少し御幣があるかもしれないですけれども、椛目にご縁を頂いておる人はです、そういう意味において確かによい頭を持っておる人達だと。それは、みんなもそうでしょうけれども特に私は椛目にご縁を頂いている人はとこう思うのです。ですから、まず、お互いがです屑の子の自覚を持たさせていただくのです。
神の子としての自覚に立たせてもらう。この、二つのところが分からなければいけない。ね。私も神様になれるのだと。生神としての徳が受けられるのだと、ね。そういう私はお互いが自覚にたって、信心の稽古をさせて頂く。椛目にご縁を頂いているという事がありがたい。という事がわかる所まで、椛目でおかげを受けなければならない。おかげを受けなければそれはいえません。
昨日、私、何気なしに、客間にちょっと入らせて頂きましたら、あの、応接台の上に、本がひろげてありますもん。見慣れない本だと思い、ずっとみよった所が、創価学会の本がおいてある。いつか麻生さんがどっかでひろうて来た。それを私一遍読ませてもらおうと思いながらです、どこにやったかわからなかった所が、その、たまたま応接台の上においてある。先日からお客さんが来た時に本を持っていってあげた時に、お芝居の本やらその本やらが一緒に雑じっていたらしい。
それを、見られたのがそこにおいてあったらしいんですね。開いてあるところを私見させて頂いたところが、んー、なかなかいい事が書いております。思わず私そこの所を読ませて頂いたのですけれども、ね、やはり、創価学会もいい事を言われるのです。けれども、読ませて頂けば頂くほどにです、なるほどと思うほどにです、お道の信心の素晴らしさをいよいよ分からせて頂くのでございます。
その中に一節にこのような事が書いてあります。「お互いが、信心によって幸せになろうとする。本気で信心をさせていただこうと思う。そうするとです、お互いの幸せになる、その、元である処のそれが犯されておる。」もう、そこをこういう風に言うておる。ね。人間がです、いわば、邪教邪宗といったような、宗教をしたその天罰で難儀を受けておるというてある。
これをはっきり書いておられるますね。邪宗、もう創価学会に言わせれば金光教もなからなければ、キリスト教もない。もう皆が邪教なのだ。もう創価学会だけが立派なその宗教なのだという訳なんです。皆が難儀を受けておるのはです、いわゆる、めぐりの劣り払いじゃないというわけなんです。それは、そういう間違った信心をしておった、天罰で嘆きを受けてあるのだから、ね。
そういう天罰がです、有り難い創価学会という信心をさせてもらえば、もうそれこそ競うてその難儀のもとであるところの、悪がどんどんでてくる。今まで仲が良かった夫婦が仲が悪くなる。今まで出なかった病気が出てくる。今まで無かった災難が矢継ぎ早に競うて出てくるようになるというような事が書いてあります。そこで、そこの難儀から助かるために、しゃくふくせよと。
しやくふくという意味は私には分かりませんけれども、お道でいうならばお導きというような意味らしいですね。ね。人をしゃくふくして、そういう間違った人達をどんどんお導きをしてさえいけば、その、邪悪な心が取り除かれていく。その、天罰がだんだん薄らいできて、真実の幸せを得る事が出来るのだということが書いてある。この辺を頂いている時に愈々、お道の信心がありがたいということが分かるでしょう。ね。
教祖の神様はそこのところをです、ね、邪宗邪派の、邪宗邪派の宗教をしたらかというのではなくてです、ね、「前々のめぐりで難を受けおり」と教えられています。それは、どういうことかというと、天地に対するところの忘恩の生活。天地に対するところのお粗末ご無礼。そういう、前々からのめぐりがです、めぐりになって現れておるのだと教祖は説いておられます。
確かにこれは、私の例を言うてもいいのですけれども、本当にあれだけの信心が出来られるのに、どうしてあんなに難儀が続くであろう、どうして、あんなに災難が続くのであろう。なるほど、やはりそういうような事を感じます。これは、信心によって、私は真実の助かりを頂くという事はです、ここがやっぱりあると思うのですね。また、教祖さまは、またの言葉で仰っておられます。
「病気災難は根の切れるまで、井戸替えをするのに、7分目、8分目でやめれば、何時までたっても水は濁っておるようなものじゃと」そこん所です。それが急(きゅう)であればあるほど、迫力を持っておればおるほどに、確かにそうした、災難難儀といったようなものが競うてです、現れてくる一つの理があるようでございます。しかもそげんとがでらんごとんもんばっかり何を信心すりやよか、そういう、信心でただし一生終わったところで、今日でも、今日私が申しますようなですね。
勉強しさえすれば善い頭を持っておりながら、いつも、落第点ばっかりとっておるというようなおだしも上がらんところの、一生で終わらなければならないという事。そこで、私昨日も申しました。ね、必ずしも災難が矢継ぎ早に、困ったこと、難儀な事がです先を競うて現れるような事では、また、困るのである。出てきたら出てきたときにそれを、しっかりですね、お道の信心によってするならばです。
それを元気な心で有り難い心でです、日頃の信心にものを言わせて、それを御神意を悟らせてもろうて、その、難儀のおかげで信心を進めていこうというのがお道の信心の進め方なのですけれども。ね、必ずしもそういう、そのう、難儀がおこらなければです、井戸替えが出来んかというとそうでないという事です。いうならば、四神様が仰っておられてありますように「氏子がおかげを受けさせて下さいと芯から頼むから。
神が本気でおかげを頂かせようとすると、もう、そのおかげ結構でございますというて、断りを言う氏子がある」と仰っておられます。いうならばです、天地に対する所の前々のめぐりというのは、言い換えますと、天地に対する所の前々からの借金とも私は頂かなければならんと思う、ね、お金をためたい、おかげを受けたいというてもです、不徳なことばかりしておって、天地に対してご無礼ばかりしておってです、ね。
神様に嫌と言うほどの借金をおうておってです、その、借金のために、首がまわらんごとなったり、手足が動かんようになったりしておるというような事実があるとするならばです、ここのところの私、借金払いが出来ると、そこから借金払いが出来て初めて、貯まるおかげが受けられるということ。そこで取るに来られるのを待っておったんじゃいけんという事になるでしょう。
集金に来られるのを待っておったんじゃ出来んです。本当にもうついて行こうごたる。そこで信心させて頂いていよいよです、本気で勉強すると言う気になり、勉強の楽しみが分かるようになる、本気で信心をさせて頂く気持ちにならせてもらえる。本気で信心の徳を身にうけていくというような、信心を分からせて頂くために、まず、一つ借金払いからだというような、おかげを、頂いたらどうだろう。
とりきてもろうたんじゃ、ついていこうごたる。こっちから進んで持って行くようなおかげを頂くためにです、ね、私は今度の椛目のご造営はです、絶好のチャンスを神様は与えて下さったというような気が致します。はあ、また御造営の話が始まったち顔せんで皆さん聞かなきゃいけませんよ。もう、朝に晩にです、もう、私が今日こそは神様に真実、御造営の御の字も言うまいと私思います。
ところが一番初めに教えてくださるのは御造営の話です。いかに、御造営というのが神の願いであるかという事を私悟りました。ね、これは、大坪総一郎個人の願いではないのだ。天地の親神様の願いなのだ、悲願なのだと、同時にその悲願が成就されるときにです、ね、お互いの願いも成就する時であるというような、おかげになってこなければならない。いうならば、御造営がすんだ時には自分の借金払いもすんでおったというような、おかげを頂かなければならないという事。
昨日、堤清さんが夕べの御祈念、御理解、御祈念に参ってきてから、頂いておられるお夢なんです。自分の家が丸焼けになったとお知らせを頂かれた。しかも、何日も続けて頂かれた。今日の御理解を頂きなさいと。ね、自分の家が丸焼けになったと思うたらです、ね、どげな積極的な御用でも出来るよと私申しました。昨日、ここに宮崎さんは朝のお夢の中に、泥棒が入っておる。
その泥棒とあなたこなたというてその丁寧な言葉で話しあっておる。泥棒が持って行っもらうから、私の方の家のめぐりのお取払いを頂くのだという事。ね。だから持っていってもらうのではない、こちらが持って行くような、おかげをいただいたらもっと、有り難い事になるだろうという意味のことを、もっと、具体的に頂いておられました。ね。なぜ、神様が最近の椛目ではです、朝の、晩の御理解を頂きましてです。
必ず、御造営のことがでておる。けれど、その、御造営のことによってです、ね、神様がいよいよ私共に力を与えてくださろうとしておるのであり、お徳を下さろうとしておるのであり、日頃、自分の信心、本気になりさえすれば出来るのだけれども、その、本気になっていない人たちの上にです、ね。本気で勉強をさせて頂くチャンスを神様が与えて下さってあり、そこのところを気付かせてくださろうとしておるために。
朝晩やはり、御造営御造営の話がでるのであろうと私は思います。いわゆる私はです、皆さんが真実助かりを求めるならばです、私は今の椛目では私は御造営の事をいわなければおられないという事になるのです。皆さんもそれを本気で頂かなければならないという事が分かるのです。日頃頂いておる日頃お世話になっておるから、せめて今度の御造営ではこの位なおかげを頂かなければというのでは、これは迫力が乏しい。
そういうものが結集したんでは、とても、今度の椛目の御造営は難しか。ね。本気で借金払いでもさせて頂こうとこっちが積極的にならせて頂いて、ね、あの時自分が死んでおったら、あの時自分のうちが丸焼けになっておったら、そういう一つの勢いをもってです、ね、神恩報謝の生活がです、ね。1日なされておるならば、さあ神恩報謝だけではない、本気でめぐりのおとり払いを頂こう。
本気で借金払いをこのさえさせて頂こう、それが本気で勉強をさせて頂くこうという事になる。先日もあるかたがです「もう本当に先生私、最近思います、最近ほど、痛切にお金お金と、お金が欲しいと思うことがありません」と。皆さんも同じ事。それでですよ「宝くじでも買わせて頂いて当ったのばお供えしようち。」本当にいかんです。神様はそういうものを求めてくださるとじゃない。ね、
おかげ頂いたならお供えしようといったような、そげなんものを求めておいでるとじゃない。あるところのいわばおかげ、ね、無尽蔵にあるところのおかげ、その、無尽蔵のおかげを掘り出すことの信心をまず、神様は求め給うておられるのです。それが今の汚れはてた信心では改まろうとして改まれない十何年間例えば信心をです、このさい本気で改まらせて頂いてという信心の造営を神様は求めておられるということ。
そこに、神様がです喜んで下さるのであり。そこに、本気で勉強をさせて頂くことの、本気で改まらせてもらうことも、磨かせてもらうことの楽しみが出来るのであり、その、受けものをもって神様がおかげを下さる、ね。そのおかげを神様は私共に切願しておられるという気がいたします。最近、総代さん方の信心がこう何か生き生きとしてきた。この御理解は昨日のあさ頂かせて頂いた時。
総代さん方がいわば「この御造営を境にどうぞ、お供えをさせて下さいということも、去る事ながら、まずそのおかげを頂く前にです、私が長年ここのところに取り組ませて頂いておったこれに、本気で取り組ませて頂いてこの際これを、お供えさせていただこうと、このガンを取り除かせて頂くことに焦点をおいて取り組ませて頂きたいと思います。」というような、御取次ぎを願われる。ね。
お互いがおかげを頂きたい、おかげを頂きたい、どうかしてお金がほしい、お金がほしいという、そういう願いもさることながら、ね、その前にまず、私共が本気で改まらせて頂くという事。ね。お互いが例えばです、「白鷺(しらさぎ)みたいなしろをもちながら、からすみたいな苦労」をしておったんでは、いつまでたってもラチがあがりませんて。苦労をしようようなものじゃつまらんて。ね。
勉強さえすればこの人はよい、勉強が出来る頭を持ちながら、勉強をしないばっかりに、いつまでも同じ所をグルグルと回って居る様な事ではならんではないかと。本気でここで勉強をさせて頂こうという気にならせて頂いて、勉強の楽しみも、ね、学徳が付いていくところの喜びも分からせてもろうて、ね。その徳にその喜びで御造営に対するところのお礼が出来るようなおかげを頂いたら、有り難いと思う。ね。
そういう意味で私は皆さんはです、勉強をすれば出来るだけのよい頭の持っておる人たちの椛目の人達は集いだと思う。あっこに、実行委員が何ぼぐらいあるでしょうかね何ぼぐらいあるですか200名ぐらいありますか。とにかく、あの上の全部役員までいれて二百四、五十もあるでしょうか、その方達がです、本気でそげなところに焦点をおいてです、改まらせて頂くということに。
いわば、本気で修行をなさる事にならしてもろうたら、その全体の改まりという大きな受けものをもって、神様が大きなおかげを下さるのではないだろうか。いや下さると私は確信する。2,3日前長女が頂いておりますお夢の中に、ね、質屋のごたる倉庫がある、どうも質屋のごたる。そこのかぎを開けてから、久富先生がはいりござる。始めは泥棒じゃなかろうかとおもいよったらよくみたら、久富先生じゃったち。
久富先生といったらそしたら、かぎを開けらっしゃったげな。そん中にジーット抜足差し足で入らっしぁったところが中にある事あること、なにがあったかというとですね、もう様々な貝、貝です。ね、様々な貝が様々な入れ物にいっぱい入れてあったち。椛目の御広前が現在25畳と。今度は48、50畳ですかね、障子を取り払えば85畳になるでしょう。いわば45畳というお広前にです、ね、これだけのものが80畳のところに入っておって、ちょこっとばっかりっち。けれども椛目の場合はちゃんとですね。
もう質屋のなかにいれてある受けだしさえすれすぐ出てくるごっなっとる、そこで久富先生だけじゃなくお互いがです、その、かぎを持ってです開けさせて頂くところの、おかげを頂かせてもらう、80畳になったら80畳一杯の、会員がお広前に溢れるようにならなければならない。そういう準備は出来ておるという事。ただ、質屋にいれてあるというだけのことである、質受け金がいるです、ここんところをです、いうならば現在は皆さんがよういしとかなければいけないというということ。ね。
お互いこのご造営を記念に、ご造営を境にもうご造営がすんでからが境じゃいかんからです、ご造営が始まったという事を境にです、お互いが本気で改まらせて頂くところの、何かを一つはっきりと焦点においてです、ね、おかげを頂かせてもらうような信心が展開されてこなければならないと思いますね。そこに、私は頂けるところのおかげ、そのおかげをもってご造営がなされたと言う時に、ね、
神様の願いというものは、ははあ、これは、お広前建立ということが願いではなくて、お互いの真実の助かり、本当のお徳というものをです、神様がくださろうとする働きであった。創価学会のそれではないけれども、本気でおかげを頂きたい、頂きたいという願いを持っておるけれども、こちらが借金払いをもっていくというような積極性がない。できれば今日も平穏無事という事ばっかりを願う信心からです。
こちらから、借金払いでもやらせて頂くというようなおかげを頂くときにです、競うてでる、いわば、災難や難儀がです、そういうようなことにならんですむおかげ、いうならば、元気でありがたく頂けるおかげというものがです、いわばめぐりのおとり払いが借金払いができるというような、おかげを頂けたほうが、皆さんいいことではないですか。けれどもです、ね、
いつまでたっても、水が濁っておるようなものじゃというような、上澄みをくみとるような、信心でよければ、水でよければ、お恵みでよければいざ知らずであります。ね。ここで、お互いが本気でそういうような信心に奮い立たせて頂いて、神様の願いと私どものそうした願いとが一つになって、神の願いであるところの御造営ができたと、神様が準備しておられるのは沢山な難儀な氏子のです。
質蔵の中に入っておるような難儀の氏子がです、引き出されて椛目のお広前でまた、神の栄光を十分に受けれることの出来れるような、おかげを頂かせてもらう。そこに神の願いがある。また、私共のです芯からの助かりを願うておられる神様がです、みすみす難儀をする氏子を見るに忍びないないという神様の働きがです、難儀なしに有り難く元気な心でです、此処の所を突破できるようなおかげを頂かせて下さい。
チャンスといったようなものは、そういつもかつもあるようなものではない。本気で勉強をさせて頂こう。そして頂いておる自分の頭に確信をつけよう。自分でもこういうおかげが頂けるのだという、信念をいよいよ強化していこう。その後は、私はおかげだと思う。お互いがです、それこそ神様になれる十分の心を頂きながら、持ちながら、ね、カラスみたいな苦労を続けるような事であってはならん。
勉強すればできるという自信を持ちながら、勉強をしない為にいつも一生を落第生で終わったというような事では相済まん。それでは、神様は喜んで下さらない。神様に本気で喜んで頂くことの為に、また、自分達も喜べる事の為に、本気でご造営に取り組ませてもらおう、信心のご造営に取り組ませて頂くというおかげを頂かせてもらう。これは私を先頭にそういう願いをもっておるのでございます。
今日は、親教会のお月次祭の後にあちらの総代会がございました。夕方までかかったんですけれども、えー、今度の8日、8日でしたかね、筑後、ここの連合会の信徒会の共励会が善導寺で今度は当番になっております。それで、どうでも一つ、椛目から多数出席して下さいという願いを受けてまいりました。もう私は今日驚きましたのはもう、どの総代さんでも、この総代さんでももう大変椛目のご造営という事に関心を持っておられるということ。いうならば、お祈り添えを下さっておられるということ。
どうぞ成就いたします様にと、本当にもうここには、そして皆んないわれるわけです。「椛目の方のお広前はどうなるですか」ち、皆んなが心配になるごたる風でした。これは私は考えてもおらんので御座いますけれども。そういう風に関心を寄せておられます。もう何かにつけて親教会との密接なです、私共が思うのにですね、もうこちらがじゃんじゃんおかげさえ、こちらが頂きさいすればよいと言う様なあり方ではいけん。もう本当に自他共にこの、五月の三日は福岡の大祭だそうです。
福岡の大祭に私もおかげを頂けと親先生が仰いました。けれども私詳しい事は申しあげませんでしたけれども、親先生もうしばらくお待ちくださいと。この頃桜井先生があちらに帰られて、親先生にお願いして帰って頂いた。その事によって椛目に対する誤解も解けるだろうと、そうすれば奥様の里であるところの福岡の教会、手続きの親でもあるところの福岡の教会に、椛目の者も一つおかげが頂けれる以前のように。
という願いを私もっておったんですけれども、これは大変な誤解がまだ残っておったという事である。ね。まずは、桜井先生がです、教師であるためには私は教師である間だけは利用してから、教師を白紙なったところが、もう途端に桜井先生に冷とう椛目があったってから、追い出したようにしてから、また福岡に連れて来たち。そういう風な誤解をしておられるから、私は親先生にこの事をですね。
誤解が解けるまでは私はおかげは頂きますまいと、だからそういうような誤解がです、ね、これにも良く似たような誤解がです、椛目と善導寺の中にもあるのです。ね、椛目のものが知らないためにです椛目のものが誤解を受けておる場合が沢山あるのです。ですから、親教会のなにかと言ったような時に、幸いおかげを頂きましてこのごろの大祭に椛目から、たった6名だったしょうが。
所があの日は丁度西鉄のストで御座いましたものですから、とにかく少なかったんです。だから椛目もそれであったであろうという風に頂いて貰っておりますから、私は安心したんですけれども。こちらの誤解向こうの誤解と言った様なものがです、なにか溝を大きくして行った様な気が致します。ですからですねこれはどうでも親教会親先生のですね、お祈り添えと親先生のご協力を頂かなければ今度の御造営は出来ないです。
あの時も私は申しましたようにです、ね、本当に例えばそれが、(?)油のような働きならばです、ね、おかげを頂かせてもらわなければならないと。同時に今度の信徒会はです、二十何箇所のやはり有名なおかげを受けた信者さんがたがです、特に甘木の平田さんとか樋口さんあたりの、大変おかげをうけておられる方達のお話もあるそうでございますから、そういうおかげを受けておる人たちの、話を聞かせてもらい、井の中の蛙ではなくて、椛目だけの信心からです。
やっぱりこう出て行かせて貰う為のおかげも頂かなければならんと、そういう意味でです、私は皆さんにどうでも、8日の日はご出席して頂いてまあ、良い話だけでもよってからでも、聞かせてもろうてです、自分達の信心の血にも肉にもしていきたいというような願いをもっておると同時に、ただ今申しますような、親教会とのデリケートのその今、事になっておることも皆さんご承知ですから。
ただ、どうぞ一つその、そこの所を信心でです。ここば分かってくださいと説明しようと思いません。けれどもこの頃から、鹿児島の先生が見えられましてから、いろいろ、椛目の信心を、どういうようなお取次をさせていただいておるか、どういうような状態で皆さんが助かっておるか、こういうようなことも助かっておるか、こういうような事も助かっておるかという事を本当にですね、私初めて、久留米関係の方から私の信心をそういう風に尋ねられました。
私大変ありがたいと思ったんです。はあそうじゃろうと思とったと、結論としてです、なるほど今の教会でです、こうでなければならないというようなものが、実際の現在の教会の働きの中で出来ていないと。その出来ていないものを椛目は皆んな持っておるという感じがいたしますねというて結論をされました。ですから、そういう風に椛目を見直して下さるような人たちが出来て来た。椛目の信心を本当にっまあだ、んなら椛目の信心をです、親先生でも、総代さんでも聞こうともなさいません。
けれども、こちらが説明をしようとも思いませんけれどもです、私共のいわばこれをもってです、御たいをもってです、私は表していけるものがあるならばです、ね、そういうような事からでも、ひとつおかげを頂ける場をです、本当に椛目に立派なご造営が出来た時にです、親先生も本当に喜んで頂けるようなです、雰囲気の中にご造営のおかげを頂きたいと思いますから、どうぞ、その点も宜しくお願い申します。御案内がきておりますからどうぞ頂いて帰ってください。8日でございます。どうぞよろしく。
(終わり)